自由の哲学について
『自由の哲学』はルドルフ・シュタイナーの代表的著作の一つです(他の代表作は『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』『神智学』『神秘学概論』)。1894年に初版が出、その後、大幅に加筆訂正がなされた新版が1918年に出ました。この版では初版第1章が省略されましたが、高橋巌先生の訳では、1918年の版にこの初版第1章が加えられています。高橋先生は初版第1章に大事なメッセージが書かれていると判断されたようです。
高橋先生訳の文庫本(ちくま学芸文庫)のうら表紙には「刊行後100年以上経つ現在も、まばゆい光芒を放ち続ける、シュタイナー全業績の礎をはしている認識論哲学。社会の中で否応なしに生きざるを得ない個としての人間は、個人の究極の自由をどこに見出すことができるのか。また、思考の働きは人類に何をもたらすのか。」「外なる世界と内なる世界、外なる法則性と内なる道徳性との間に横たわる深淵は、ただ自由な魂だけがこれに橋をかけることができる」と書かれています。
『自由の哲学』の“付録=2”でシュタイナーは、「芸術としての哲学が人間の自由とどのような関係を持つのか、人間の自由とは何か、われわれは自由を持っているのか、あるいは自由になることができるのか、これらが本書の主要問題である。」と述べています。本書を読むことで、これらの問についての答えが得られるのかどうか、それを確かめるためにあらためて本書をじっくり読んでいこうと思います。
シュタイナーはさらに「すべての学問は、もしそれが人格の存在価値を高めるために努力するのでなければ、無用な好奇心の満足に役立つものでしかないであろう。学問が本当の価値を持つのは、その成果が人間存在にとって意味のあるものとなったときである。魂の個々の能力を高めることではなく、われわれの中にまどろんでいるすべての能力を発展させることが個体の究極目的なのである。
知ることは人間本性全体のあらゆる面での発展に寄与する時にのみ、価値を持つ。それ故本書は、人間が理念に頭を下げるべきであるとか、人間の能力を理念のために奉仕させるべきであるとかと主張するつもりはなく、人間が理念界を自分のものにして、単なる学問的な目標を越えた人間的な目標のためにこれを用いることができるように、学問と人生との関係を考察するのである。われわれは体験しつつ理念に向き合うことができなければならない。そうでないと、自分を理念の奴隷としてしまうことになる。」と述べています。
『自由の哲学』を学ぶことで、それが人格の存在価値を高めるために役立つものになっていくように努め「理念界を自分のものにして、単なる学問的な目標を越えた人間的な目標のためにこれを用いることができるように」していきたいと考えています。
森章吾さんは彼の訳書『自由の哲学』の“訳者あとがき”の中で次のようなエピソードを書いています。森さんが書店で山口真由著『東大主席弁護士が教える超速“7回読み”勉強法』という本を見つけた時に、「今、7回読むのにふさわしい本は何か」と自問して思い浮かんだ本が、ルドルフ・シュタイナーの『自由の哲学』だったそうです。
私はこれまで主に高橋巌先生訳の『自由の哲学』を恐らく5~6回は読んできました。今回、『自由の哲学』を読めば恐らく森さんと同じように7回目になるのではないかと思います。
この本は7回読んでも恐らく、「分かった!」とはならない本です。何回読んでいても、中々判然としない感じがします。もちろん内容が難しいこともあると思いますが、その内容が人間にとっての根本的な問題を深く追求している本なので、そう簡単に「分かった!」とはならないのだろうと思います。
このセクションでは、私なりに『自由の哲学』を読んだ感想や章ごとのまとめをパワーポイントにまとめたものを適宜、ブログとして掲載していく予定です。