アンチ・コスモス
- 水野 辰哉
- 2024年8月25日
- 読了時間: 6分
今日は、昨日ご紹介したタロットのリーディングに関連して、井筒俊彦先生の『アンチ・コスモス』という講演についてお話したいと思います。この講演については、以前、友達からCDを借りて聞きました。『井筒俊彦全集』第九巻についている附録で、1986年12月13日に井筒先生が天理大学主催の天理国際シンポジウム‘86で公開講演を行った時の収録です。
ギリシャ語にノモスという言葉があり、“規範”を意味します。井筒先生は、宇宙的理法という言い方もされていましたが、それによって宇宙(コスモス)は、全てがきちんと秩序づけられた明るい空間となっており、そこに人々は安らぎを見出します。その秩序構造を支えている規律、規範、あるいは掟、それがノモスありであり、人々はノモスを守って生活している限り安全です。
ところが人間は元来矛盾的存在で、反逆精神を持っています。それであることを「するな!」と言われるとかえってしたくなる。コスモスの中でおとなしくしていれば安全なことは分かっていても、その安全そのものがわずらわしくなってくる。人間にとって、ノモスが束縛し主体性を抑圧するものに感じられてくるのです。
人間は合理性も持っているけれど、同時に無秩序や非合理性への抑えがたい衝動も持っています。井筒先生はこれについてアンチ・コスモスということをおっしゃっています。これは外からやって来るのではなく、人間の内側から抑えがたい衝動として出てくるのです。そして、自分の外側にある枠を破壊してその外に逃走しようとするのです。
つまり、人間は既存の存在秩序の枠を打ち破ることに快感を感ずるのです。自分の魂を外側から枠をはめて抑えているのは身体です。身体という殻を破り、その外に魂が出てしまうこと、それがエクスタシーです(ecstasyの語源は外(ec=ex→外)に立つ(stasy=stand)。
アンチ・コスモスの例として、“阿修羅のごとく”というテレビ・ドラマを取り上げてみたいと思います。これは、物語の名手、向田邦子さん原作のドラマで、テーマ曲とともに強く印象に残る作品でした。
テレビ・ドラマでの主人公は八千草薫さんでした。初回放送は1979年なので、八千草さんもまだ若いです。このドラマはまさに人間の心の奥に潜むアンチ・コスモスを描いていると思います。平穏な生活を営んでいれば無事でいられるのに、それを突き破って外側に出ていきたいという抑えがたい衝動、そういう”阿修羅”を誰しもが持っているのだと思います。
何か不思議なモノが出現することから物語が始まります。最初は主人公の父親が電話している場面です。そこに何か不穏な空気が漂っています。安定した日常、明るいタテマエの世界になぜか満足できなくて、気がつくと不穏なものが生まれて来る。そしてそういうものに知らない間に惹かれていく人間の姿が描かれています。
NHKアーカイブスの番組だったのでドラマの後に解説がついていて、爆笑問題の太田光さんが向田邦子さんの魅力について語っていました。司会者が「向田さんのストーリー作りのうまさの秘密はどこにあると思いますか?」と質問すると、太田さんは「ドラマの中に何か不穏なモノが漂っていること」だと答えていました。
この“不穏なモノ”、これがまさに非合理で得体の知れないアンチ・コスモスです。それは、なんでもない日常の生活の中にある日ふっと浮かび上がって来ます。外からの脅威としてやって来るのではなく、存在自身の中に何か自己破壊的なものが含まれている。向田さんはこのドラマでそういうものを描こうとしたのではないかと思います。
井筒先生は、ロゴス的秩序を内面から崩壊させようとするカオス=アンチ・コスモスの恐ろしさを痛感し、それを強烈な形で文学的に表現したものがギリシャ悲劇だとおっしゃっていました。人々をカオス的狂乱に誘い込み、ロゴス的な秩序を破壊するものに人間は強く惹かれる、そこにはディオニソス的なものがあります。
ディオニソスはエクスタシーの神です。昨日(2024年8月24日)ご紹介したタロット・カードの展開では XVIII 月のカードにおいて、クライアントの心の中に、それまで隠れていた“情念”のようなものが浮かび上がってきて、日常的な意識とのぶつかり合いがありました。そういうものが出て来ると、XVI の“神の家”となり、起立した塔の先端からエネルギーがほとばしり、エクスタシー状態になって魂が身体から抜け出てしまいます。これがディオニソス的な陶酔状態です。
ギリシャ悲劇は凄惨な事件の連続です。激情、陶酔、狂乱といったディオニソス的なものが、調和、均整、中庸の美徳といったアポロン的なものと対立し、殻を破って外に飛び出してくるのです。そうなると人間はもうそれに抵抗できない。向田さんのドラマにそれが描かれていたと思います。
井筒先生は、講演の中で、否定と破壊があって初めて人間にとっての真実の生の“肯定と創造”が可能になる、とおっしゃっていました。ディオニソスは「永遠に自分自身を創造し、また永遠に自分自身を破壊する働き」「根源的な意志力」であり「“苦悩”と“破壊”の後に“創造”と“再生”に向かう」ことができるのです。
井筒先生はさらに“根源的無”ということをおっしゃっていました。これは大乗仏教の説く“空”に通じ「虚無(ニヒル)ではなく有の限りない充実」で「一切の現象的存在分化のイデアであり、一切の意味分節に先行する未分の状態」「実態的にこり固まった動きの取れない構造体ではなく、無限に開け得る自由な空間」だとされています。
「無を体験することによって得られる自由な心」は「限りなく内的に解体されたアンチ・コスモス的コスモスの成立を可能に」し「一定の分節体型に縛りつけられない融通無碍の意識柔軟心に対応して限りなく柔軟なコスモスが自ずからそこに開けてくる」ということでした。
モノゴトを生み出す力、それは生命力でありエーテルの働きです(エーテルについては人智学のセクションで詳しくお話する予定です)。昨日のタロット・カードの展開の中に I の仕事師のカードが出てきました。このカードで仕事師の机の上にバッグが載っていますが、これはその内側がエーテル空間になっているバッグです。バッグの中は“空”であり、そこから何でも取り出すことができる魔法のバッグなのです。
クライアントさんは、所属するグループの方々と表面上は人間関係をうまくやり、ルールもきちんと守っていますが、心の奥底ではそうしたものを自分を束縛する殻と感じ、それを突き破って自由になりたいという抑えがたい衝動を持っていたのではないでしょうか。
彼女は自分の内面に正直に向き合い、今まで自分を縛ってきた多くのものを、痛みを伴うかもしれないけれど、断ち切ることによって、自分の内側から湧き上がってくる創作意欲を感じて、のびのびと作品を生み出すことができるようになる。
タロット・カードはリーディングを通して、そのことを伝えようとしているのではないでしょうか。井筒先生の結論は「コスモスの中におとなしくしていれば安全なことは分かっていてもその安全そのものがわずらわしくなり」「無秩序、非合理への抑えがたい衝動」が生まれるので、殻を破ってあえて不安定非合理な状態に自分を置かないと人間は自由を手にすることができない、ということだと思います。
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